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避けて通れない「死」について 私が考えてたこと|「無意識がわかれば人生は変わる」前野隆司 を読んで

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最近死についてふと思うことがある。人間に限らず生きているものは100%死ぬ、消えてなくなる。これって当たり前のことなんだけど、よくよく考えると凄い事実ではなかろうか?

死について四六時中考えていたら、自我が崩壊するかもしれない。だから私も含めて大概みんなあまり考えないようにしている。

この記事は5,6年前に私が、とある本から死について考えている内容である。

過去の私は何を思ったのだろう?今と変化はあるのかな?

読み直してみた。

死生観、あなたはどう考えている?

「死」についてこれを自分事として真摯に向き合っているかどうかで生き様が変わってくる(かもしれない)と感じている。

先日、読破した「無意識がわかれば人生は変わる」この本の中にも死、死生観について述べられた箇所があった。

戦いの原動力は不安と怖れ。「本当に死ぬかもしれない」という局面に至れば、文字通り死ぬ気で戦うのでしょう。でも、いずれみんな死にます。その事実を受け入れたら、そうまでして争う必要はない。どうせいつかは死ぬのですから。 頭ではわかっているはずなのに、その感覚で生きてはいないということだと思います。死を前提にして「今をまっとうする」感覚で生きていたら、生存適合OSは人間を動かすことはできません。 「できるだけ死を避けたい、延命したい」と抗っているうちは、無意識のOSにのっとられてしまいます。死から遠ざかることが良くて、近づけるものは悪いという二元論の戦いから逃れられない。仕事やお金への不安も、すべて死に近づく感覚として認知される。困難が生じること予測し備えればうまくいくはず、という脳の働きがいき過ぎていると思えます。そのためには未来の悲観シナリオを思い描かなければならない。多くの人はその悲観シナリオを避けるために今を生きてしまっている。 助け合って生きればいいんですけどね。 昔は日本でも、つながりこそが安心だったんですよね。でも、いつしか「つながりよりはお金の方が安心できるのではないか」という幻想を抱くようになった。やがて、それが、お金がなくなることへの恐怖に変わってしまい、何のために働いているのかわからなくなっている。自分と家族が死なないためにはそうするしかないと必死になっている。それでは幸せになれないでしょう。

この本では地球上にすんでいるみんなが、助け合えば全員が豊かになれることができるんじゃないか、それができないのは、意識の幅が狭いからだと話している。

この意識の幅っていうのはどう生きるか、どう在るかというbeingの有り様のことから派生する認識できる事柄の幅、大きさのことかなと思う。とある方が「真面目に死を意識するだけで、死はその人を聖人にしてしまうかもしれません」と書かれていた。

「明るく死を意識すること」この大切さを思う。

人間は限りある時間を意識することで、はじめてイキイキと本来の姿になれるのかしれない。

神様が与えてくれた大いなる謎

「必ず死ぬ」「人間の死亡率は100%」それは自明なことなのに、それを真正面から受け止められない。死は怖い、死んだらどうなるの?わからない、わからないから怖い。死んだら無くなるのか?「私」は今ココで考え存在している私はどうなるの?このことは考えてもわからない。

そのときにならないと、わからない。

神様は大いなる謎を最期に残してくれた。

生きてる人間には絶対に解けない謎。

死についてわからないからといって諦めるのと死を真正面から受け止めないは全く違う。

私は私なりに考えることは、諦めたくない。

死を目前に見た人は誰しも残された時間をこよなく愛おしく思うように感じられる。

空・海・水・花・植物・動物、この地球のすべて、この宇宙のすべて、歴史・化学・科学・物理法則・自分・自分の過去・友達・かかわったすべての人・時間・空間・認識できる事全部、愛おしくなるに違いない。

私はその感覚をいつも認識できるようになりたいと考えている。私にとってこうして死について書き残すこと考えること、それはとても大切だ。

「死を間近に感じること」が与えてくれる大切なもの

多分、「死」が見えると他人と比較する馬鹿げたことや他人に対するすべての無駄な思考は消えていくと思う。「死」を間近に感じるほど、それらのどうでもいいことは無くなっていく。

死は見せてくれる。真実と本質を。

ほんとうに大事な真実、本質だけに思考がそぎ落とされていく。

今日できることは一つだけ。

30秒でいいので、自分が人生の最後に「これだけはやってよかった」と思うことを一つだけ考えてみてほしい。

不思議なもので、死について考えているはずなのに、案外見えてくるのは「生き方」の方だったりする。

逆にいうと死を意識して考える必要が無いことは私にとって不要だということだ。「死」を意識することで、本当に必要なことと不要なことが明確になる。

「死」は「どう在りたいか」「どう生きたいか」を直球で狂いなく聞いてくる。

あなたは、その問に視線をそらさずに答えることができるだろうか?

私は死を目の当たりにした時、何と答えるだろう。

「死」は影のように常にそばにある。この影が私を捉えてしまう前にその存在を「意識する」ことが最重要だ。そう、思う。

当時の私もいろいろ考えている。

さて、あなたはこの記事を読んでどう思うだろう?

2026年追記

5,6年前から私は死について関心があった。そして考えていた。

勿論、今のほうが考える頻度は上がっていると思う。「死」を意識することは無駄な思考を整理するには有効なのも変わらない。

でも、あまりリアルに感じすぎると、「死が迫りくるのに、こんなことしてていいのか?」っていう焦燥感にかられてしまう。さらに、「どうせ私が死んだら、意味がない。こんなことしても何の役にも立たない。無意味だろう?」という虚無感に襲われたりもする。

これは、あかん思考回路なんだろう。

でも、「いずれ死ぬ」を受け入れると、確かに「生存適合OS」では人間は動かせなくなる。世紀の大発見以外はたいして意味がなくなるからだ。「どうせ死ぬ」。そう思うと無気力に陥ってしまう。これは私も感じていることだ。

でも、そうではない考え方もできると最近は思っている。記事でも触れているが、「自分を含めて環境、時代、出来事 すべてがかけがえのない愛おしいもの」だからだ。そして、そこにいる私が楽しい、嬉しい、悲しい、悔しい、寂しいと感じたすべての思いが今という宇宙に刻まれていき、消えることはない。その時その場所に確かにあったことだからだ。だからすべて価値があるという考え方だ。

何が本当であるかなんかは、わからない。今、生きてる私が気持ちよく、夢中になれる考え方を採用したい。これは昔は一生懸命、今は余裕|時間の流れを体感した話でも書いた「気分」の話と同じだ。

この過去記事は私が当時、何を考えていたのかを知る大事な記事だった。考え方は多少変化している。

過去の私。今の私。そしてこれからの私。すべてはこれからも変化する。変化しないものはない。自分も含めゆっくりとだけど確実に変わっていく。

自分の足跡を時には振り返ってみるのも面白いと思う。

今日も地球はゆっくり回っている。青空を見上げて、未来の自分がこの記事を読むときのことを考えている私である。

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