森さんのエッセイは読んだ後で、「そこはかとなく、この人は何かをつかんでいる人だ」と感じさせる何かがある。
何かこう、掴みどころがない、表現のしようがないような真理(?)みたいなものを理解していると思わせる余韻である。
だから魅力がある。
さらに文章の切れが良く、わかりやすい。でも、透明感があり光があり、時にあったかさがある。
私は森博嗣さんの書いた文章の中で、気持ちよくいつも泳がせてもらっている感覚だ。
(現実には水泳はできません。金槌です)
「ありがとう、森さん」と心の中で呟きながら。
私の理想の死に方は?
あなたは自分の理想的な死に方を考えたことはあるか?
私はまだない。
多分まだ先のことと高を括っているんだと思う。
でも、そろそろ考えておいても良いかもしれない。
そのことを書いておきたい。
理想の死に方・・・ぱっと思いつくのが「家族や友達に囲まれて死ぬ」という絵ずらである。あかん、ドラマに洗脳されてるな、私。
本当にその場面になったらそんなこと望むかな?
いや、多分、それどころじゃないし、何も望まないと思う。
多分、私だけの世界。「私とわたしだけの世界」そこには誰もいない(物理的に誰かがそばにいたとしても)そんな気がする。
だから静かに枯れるように、ふぅっとみんな逝くんじゃないのかな。(知らんけど)
森さんの理想の死に方は?
ズバリ、「散歩の途中で倒れて、野垂れ死ぬのが最高」という。
「野垂れ死には、理想的だと思う。動物はみんな野垂れ死にするのだ」
動物は確かにどこかで一匹づつ、一羽づつ死んでいるのだろう。野生の動物の死体を見ることはない。どこかでひっそり死んでいるんだと思う。
思えばそれが自然の姿かもしれないとふと気が付く。
そういえば以前飼っていたオス猫は、いつのころからか帰ってこなくなった。
多分「死期」を悟って出ていったんだ。
(動物、凄!)
森さんは家族に囲まれて死にたい、なんてことは全然思わないという。死に目に会うことの重要性が分からないし、どういった価値があるのか不明だという。
確かにそういわれてみればそうだ。
見送る側としては「最期だから」という意識と「一人であの世に行くのだから見送ってやりたい」(あの世のことは不明だけれど)という観念があるのじゃなかろうかと私は思う。
実際死んでいく側にとって価値があるのかどうかはわからない。
私は、どっちでもいいかな。
物理的シチュエーションは意味をなさないような気がしている。
日本では死について率直に話しにくい。これを避け続けると困ったことになる
日本では「死」を忌み嫌う風習があると思う。
「死」について話さない。
「年寄りが死んでも『信じられない』などと驚く振りをする。(中略)普通に病気で死んだのなら、予測ができなかったはずはない。もし本当に予測外だったなら、それくらい予測しておきなさい、といいたくなるほどだ」
確かに誰かが死んだとなると、年寄りでも驚いて惜しまないといけないようなムードがある。
あれは何なんだろう?私が住んでる田舎は特にこれが顕著だ。
死は悲しむべきことだ、驚かないなんて薄情者だ。
まるでそんなかんじがする。
やっぱり死は分からない、だから怖い、それじゃ、考えるのはよそう・・・そうなるのかな??
そのノリはわかるような気がする。
私だけでも「死」について、自然体で受け止めていきたい。
死について言葉にすること、話し合っておくことのすすめ
「愛する人であっても、子供であっても、死なないと信じているのは不自然だ。そういう可能性があることをまず認めてこそ、毎日がかけがえのない時間だということが理解できるはず」
という。
さらに
「普段の生活で、ちょっとしたときに少し真面目に、自分の死や家族の死について話し合っておく方が健全だ、と僕は考える。」
ですよねぇ・・・と頷く。
わかっている。私のことだったら話せる。
これが両親の死後ことを両親と話すとなると抵抗があるのは私だけだろうか?
すぐにでも「死」を意識させるようなことにならないだろうか?
これは私の勝手な心配かもしれないけど。
森さんの言う、普段の生活で自分たちの死について話し合うのは理想。
私も日本文化に染まっているのか、両親と話すのには抵抗がある。
これは今後の課題だな。
遅かれ早かれ、私を含めこの世のみんな死んでいく。これが自然。
美しすぎる文章。森さんの死への思い
「人生の最初は誕生。そして、最期は死だ。大事なことだから、よく考えておくほうが良いに決まっている。考えて、覚悟しておけば、慌てずに、落ち着いて死を迎えられるだろう。
大袈裟なことではない。水の中で泡は生まれ、水面まで上昇すると、最初より大きくなっている。そして、ふっと消える。水面は少しも乱れない。そんなふうに死にたい」
美しすぎる。
・・・実際地球上の生き物は、水中に生まれた泡なのかもしれない。
そう思わせる文章だ。
動物たちは皆、いや、人間でさえ、水面を揺らさず旅立っていると私は思う。
一人一人はある意味、ちっぽけな存在ということの証拠だろう。
人生は虚しいから楽しいのか?
森さんは死を覚悟しつつも毎日、工作をちまちま続けている。完成してもたいしたものではない、やるだけ無駄じゃないか、と思っても不思議ではないという。でも楽しいから作っているらしい。
「生きることは虚しい。もしかしたら虚しいから楽しいのかもしれない。この理屈は、まだわからない」
むむむむ・・・
この虚しいから楽しい。わかるようなわかならにような、物凄く余韻がある言葉だ。
人生とは死んだら終わり、何をやっても虚しい。そう結論付けることもできる。
若い時はこれを真剣に悩んだものだった。
死んで自分がなくなるなら生きても意味ないよってね。何のために生きてるんだ?
でも、考えを変えた。
「私という人間はこの宇宙において後にも先にも私だけ。だったら、跡形もなく私が死んでなくなったとしても、虚しい存在であったとしても、生きたこと自体が歴史なんじゃないか」
この考え方と「虚しいから楽しい」が繋がるのかはわからない。
森さんも「虚しいから楽しい」のかもしれないけど、理屈はわからないと書いている。
この理屈がわかったら、ぜひ森さんには書いてほしいものだ。そして私に教えてほしい。
私は人生のむなしさを感じたことがある。
私は人生の楽しさ、嬉しさも感じたことがある。
この2つに関係性があるとは気が付かなかった。
「虚しいけれどオンリーワンの人生。儚くすぐ消えるけど1回きりの人生」それだからこそ私だけの人生は楽しいのかもしれない。
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