「ニーバーの祈り」
神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。
God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, courage to change the things that should be changed, and the wisdom to distinguish the one from the other.
この祈りを私が初めて知ったのは大学に在学中であった。
私はカトリック系の女子大に通った。そこでシスターからこの祈りを学んだのである。
シスターはいつも笑顔で包容力がある方だった。修道服に身を包み静かに歩かれていた。廊下ですれ違うといつも優しく声をかけてくれた。大学生みんなの憧れの存在。
それでいて行儀作法に厳しくレポートも修正を許さない、まさに凛とした人だった。
私はそんな厳しさの中に美しさを感じ、憧れを抱き、そして背筋を伸ばしていた学生だった。
この大学では、いろいろな考え方感じ方を学べた。私はクリスチャンではない。キリスト教に触れたこともなかった。しかしシスターの存在、考え方や生き方、それらにとても助けられたように思う。この詩はそのシスターが大事にしていた詩だ。とても印象に残った。
とても静かでシーンとした静寂を感じる詩だと思う。
大学生の時の私と今の私。
・・・感じてることはあまり変わっていない。
あの頃も何もわからず不安だった。今も不安はある。
土台、私の主観だから確かなモノはないのではあるけど。
改めて読んでみると、静かな、でも強い意思を感じるのである。
私の心はあっちこっち揺れている。そして他者の意見に引っ張られ自分を見失うことがある。過去と未来に引き裂かれることもある。そんなときに「今考えている」ことは変えることができるのか?変えることができないのか?を見分ける時点に立ち返らせてくれる。これが大事だと改めて感じた。
2026年追記
改めて「ニーバーの祈り」を読んでみた。シスターのことを思い出した。私たちの憧れのシスターも今はもういない。でもこの短い詩を読むと、私は銀杏並木が美しい、小さいけれど掃除が行き届いた学び舎を思い出す。そしてそこには、大学生の私がこっちを向いて手を振っているような錯覚を覚えるのである。「50代の私もなんとかやってるよ」一人話しかける私がいた。
自分のために生きる勇気をくれる、もうひとつの祈りの話はこちら。
私は私のために生きる|「ゲシュタルトの祈り」に勇気をもらう
こうした気づきも、私の中では一本の線でつながっている。このブログ全体の考え方はお金の話ばかりじゃない理由|50代おひとり様がこのブログで伝えたいことにまとめている。

