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「クローンの私」を「私」のために犠牲にして良い?|「わたしを離さないで」を読んで考え込んだ話

50代になって、新しい扉が開いた話
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私の臓器移植のために「クローンの私」を犠牲にしていいのか?
私という自我にとっては良いのかもしれない。
「クローン私」側の意識、気持ちはどうなのだろう?
クローン私にも自分はあるのだろうか?
私に似た自意識を保持しているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
どちらにしてもクローンの人権はどうなるの?
私は一つの小説を読み終えて、悶々とした。

読んだ本は「わたしを離さないで」カズオ イシグロ著

あなたはこの本を知っているだろうか?
とても有名な小説だという。話題作だったらしい。
私は何も知らないで手に取った。信頼する友からの勧めだったからだ。
今度会ったとき、話題にしたい。そんな軽い気持ちで読み始めた。
が、最初からなにかおかしい。
知識なしではあるものの、冒頭から違和感があり戸惑った。
作者は意図的にはっきり表現していない。
述懐風作品ゆえの、心情部分が多いのが原因か?
あの何か暗い秘密を抱えているだろう重い空気感が漂っている。
「なんかあるな。しかもやばいことが」直感した。
著者のすべてをぼんやり描こうとしている作意を最初から感じていた。

クローン人間はどんな人?

読み進めていくうちに、臓器移植のために育てられている人たちのことだとわかった。
やっぱりそういうことか。

私は「クローン私」にも、私と認識する自己が私と同じようにあると思う。
だってクローンでしょ? 私の細胞から作られているのが前提。多分見た目は私と似てるんじゃないかと思う。性格は見た目ほど一緒である可能性は低いような気がする。
これ多分、ちょっとした差の影響が脳にはとてつもなく大きく出やすいと思うから。
だから私と同じように「若冲が好き」と思うかどうかは疑問だが、それでも好みや才能をもった人であるように感じる。

小説ではクローンにも才能もあれば個性もあるように書かれている。だからそれを証明するためにキャシーたちは、ある程度の水準の教育を受け、そこそこの生活が保障されていた施設で育つ。
そして彼らの中には事実、素晴らしい作品をつくる者もいた。
これはその施設を立ち上げた人たちの挑戦だったことがわかる。
でも失敗した。施設は取り壊され臓器移植の必要のみが残った。
小説の中では、人間社会はクローンの命より「自分の妻、夫、子供」の命のほうを優先したことになっている。
キャシーの今後の未来、介護者から提供者になり、使命を終える未来がぼんやり見えた気がした。

そのクローンの臓器を利用して私は延命していいのか?

クローンの問題が行きつくのはクローンの命の重さ問題である。
どうしたってこの微妙な問いが現れる。
自分のために、自分から生まれた「クローン私」の命を削っていいのか?
・・・よくないだろ?!
直観的な感想だ。

私は「わたしを離さないで カズオ イシグロ」を読んで一人考え込んでしまった。

「わたしを離さないで」私にだって好みはある!

小説はキャシーという女性の述懐という形式で進んでいく。
だから、遠慮がちというか、必要以上に丁寧というか、とにかくまどろっこしい。当事者なので真実は繭に包まれていてはっきり知らされていない。だから「わからない」ことが多かったからともいえるのだろう。
(クローン人間のキャシーさん、これだけ語れるのだから知能指数は高いぞ。)
読者は秘密がある、何かおかしい世界だと思うだろう。陰鬱な感じが本全体から立ち上る。
おかしいのは語り手自身。普通の人間としての未来はない個体だった。
抑えられた丁寧な話し方。
思い出しながら「わからないこと」が「わかっていく」過程をその当事者の立場で語っている。

「わたしを離さないで」。これはキャシーが好きな曲の題名。
彼女にも好みはある。彼女はこの曲を繰り返しカセットデッキで聴いている。
大好きすぎて、枕を赤ちゃんに見立てて抱っこして曲に合わせて踊るシーン。
印象的。
そしてその施設で生活している同僚にも、個性や好みがある。絵も描けるし、詩も読めるし、朗読もできる。
多少パニックを起こす、癇癪を起す、感情が急変するなどの不安定さはあるが彼らは人として描かれている。
そして主人公を含め、みんな、なんとはなく事実を知っていてそれをいつしか当たり前の運命として受け入れている。

教育で「当たり前」として受け入れさせることの可能性

小説の中では、みんなその運命を使命として、成長していくにつれ普通に受け入れたように書いている。
臓器移植を繰り返して、いずれ死ぬのであるがそれを「使命を終える」と表現している。
幼少期から臓器移植のために育てるわけだから、脳の成長に合わせて刷り込めば本人たちもその運命を当たり前として認識し、そこに苦痛はないのかもしれない。そういうふうにもっていける可能性はある。
事実小説の中ではそうだった。誰ひとり逃げだすこともなかった。
教育とは恐ろしい。
確かにブラック企業でなん十年も働いていると、他の世界を知らないからあれが普通と思い込む可能性はあったな。ネットと労働法の勉強で私は覚醒してたけど。

だんだんと友達が消えていく。
「あの人も使命を終えた」「この人も終えた」って喪失感と恐怖で逃げ出すのが普通だろう?でもそれをしない彼ら。

クローン人間は語らない。本心はわからない。

キャシーは語らないし現実から逃げない。受け入れている。
でも本当は嫌だったんじゃないだろうか?逃げ出したくてしかたないんじゃなかろうか?
それを教育と洗脳でそうさせない世界。
キャシーだけじゃなく、友達のトミーも逃げなかった。しかも彼は4回、提供者になって使命を終えた。
私なら友人が「使命を終えた」って言われても、「あ、そうですか」とは言えない。
イチかバチかで逃走を企てるかもしれない。クローンはそんなこと思わないのかな?

あなたはどう考えどう選択する?

クローン羊の話、あれは何年前だったか?調べてみたら30年前の話だった。
あの時は、妙に不安な気がしたものだった。人間が触ってはいけない領域に手を伸ばしたってかんじ。
クローン人間を許可すれば本当にこの小説の世界が到来するかもしれない。
そのときクローンの命と「身内の命」。あなたはどっちを選択するだろう。
人間は身勝手だ。きっとクローンを犠牲にする。
私自身もそうしてしまうかもしれない。
特に自分ではない家族の命であればそうなってしまうだろう。
では、自分だったら?
「移植しないと確実に死ぬ」この現実を私が突き付けられた時、私は「クローン私」に頼らずに私の生を諦めることができるだろうか?
わからない。
その時の私の状況や社会の在り方にも影響される気がする。

自分の命と他者の命。
「生きたい、死ぬのは嫌だ!」という本能。
「尊い命は他者も同じ。それを犠牲にしてまで生きていいのか?」という理性。

「命」は「命」。どっちが重いとかそもそも言えない。

この問いに私は明確に答えられない。これが正しいと胸を張って言える根拠を持ち合わせない。今、現実にはクローン人間は存在しない。だから棚に上げておこうと安直に思う私。
でも、未来、そんな時代が来た時、私はどうするのだろうか?

『わたしを離さないで』はこちら(ハヤカワepi文庫)

命を犠牲にしていいのか、という同じ問いは、経済動物についても考えたことがある。こちらに書いた。
「殺されることがわかってるのかねぇ」|『銀の匙』が思い出させた、50年消えなかった問い

こうした気づきも、私の中では一本の線でつながっている。このブログ全体の考え方はお金の話ばかりじゃない理由|50代おひとり様がこのブログで伝えたいことにまとめている。

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